No.167 『いま・ここ・自分』の定期健診を

先日、ある情報番組で
「幼児化する世界」
について特集されていました。

外出する支度をしながらでしたが、
最後、ある評論家の先生(私は割と好き)が

『いまここ自分ではなくて、しっかり周りを見て・・・先を読んで・・・云々』

と仰っていたように聞こえました。


私は4年前、座禅に通っていた際、
『いまここ自分』
を毎朝感じながら
自分と向き合ってきたため、
『いまここ自分』を否定されたように思いました。

一体どういうことだったのか?
あれから折に触れ、
(書籍や新聞、大物の海外逃亡、大国の圧力などのニュース)
「いまここ自分」とはどんなことなのか
ず~~~っと考えていました。


【いまここ自分の意味】

禅の世界では、
物事の原因を他者に求めるのではなく、
自分の生き方を問うべきという考え方があります。
わたしが座禅中、
手を組んだ「法界定印」の中は

「自分だけの広くて深い宇宙がある」

と教わりました。
自分を見つめることは、
それほど広くて深いのだと思い知りました。

特に真夏の座禅堂では暑くて
首、背中から汗が流れ落ちるのを感じたり、
真冬の座禅堂では寒くて冷たくて
靴下を履かないので、
足の感覚がなくなったり、

心の動きとともに、
身体の反応でさえも
第三者として自分が自分を観察しているような(メタ)
感覚でした。

「当処即ち蓮華国 此の身即ち仏なり」
~わたしがいまここにいる~
本当の意味で「いま」に気づけば、
ここは「浄土」、わたしは「仏」であるという教えです。


私の場合は
『自分対自分』における『いまここ』
の考え方でした。




【もう一つのいまここ自分】

よく、
「いまここ自分を大切にしたら、とても楽になった!!」
というお話を耳にします。
私としては、
「え~~~~私はとても苦しいワイ」笑

と全く違う感覚でしたが・・・。

これ、
どうも西洋哲学と東洋哲学での違いらしいのです。

西洋哲学における「いまここ自分」は、
他者との依存関係
が前提にあるようです。

ですから、

何か頼まれたら、「はい喜んで」と受けましょう。
とか、
逆に
今、本当にしたいことをやろう。
人の目を気にしないように生きよう。


など、他者が介在しています。

『他者対自分』における『いまここ』
の考え方になります。



【いまここ自分は定期健診】

5年ほど前に、
タレントの大久保佳代子さんの取材記事を読んだことがあります。
大久保さんがOLから「はねトび」(バラエティ番組はねるのトびら)
で芸人として復帰した直後、

自分は芸能界でどうありたいか、
非常に悩んだそうです。

その時、大久保さんがしたことは、
スタッフの皆さんに、
『私にどんなことを求める?』
と自分の期待されている役割について、
聞いて回ったそうです。
この取り組みは、
人の目をめちゃくちゃ気にしていて、
何を求めるかまで注文を訊いていることになります。

その頃は今ほどの人気ではありませんでしたが、
私はその記事が心に残り、
ずっと注目してきました。

やっぱり彼女は
芸能界で確立されたポジションを手にしました。

最近はテレビで大久保さんを見るたびに、
気分がスカッとします。

バラエティ番組に復帰して、
人気が出てきても天狗にならず、
大久保さんは『いまここ自分』
を点検したのだと私は思います。

『自分対自分』の対話を行うことは、
まるで定期健診のように大切なことです。



【わがままにならないように・・・】

他者との関係性での『いまここ自分』を考えると、

自分がやりたいことがコレだし、
周りから求められたことはやりたくないし、
自分に正直になるんだ


となります。
これは第一段階の自己実現につながる第一歩だと思います。
だから間違ってはいない。

しかし、
齢50手前の私には、
少し、違和感を覚えます。

周りから求められている期待値も含め、

私だからできることはなんだろう?

と『いまここ自分』に向き合うことは

超越した自己実現が獲得できる
近道ではないでしょうか?