ヴァージニア・ヘンダーソン著
看護の基本となるもの
私はこれを臨床を離れてから
再度読み込みました。
国、法律、医療技術、病院などの施設
「患者」と呼ばれる人々が存在する
環境には差がありますが、
その差を超越して、
全ての看護師のあり方と、
提供する看護の原理原則が
綴られています。
今日から、
人を育成する立場の視点から、
この古典を読み解いていきたいと思います。
人の自立・自発を支えるために私達はどうあるべきか?
(はじめに~第1章)
【人のニーズ(欲求)を捉えにいく】
~ニーズ(Needs)とは~
人や集団が持つ欠乏感のこと。
個人の場合、
生理的ニーズ(空腹・渇き)、
社会的ニーズ(帰属、尊敬)、
個人的ニーズ(自己実現)などがあり、
人間生活上必要な、ある充足状況が奪われている状態をいう。
(コトバンク)
ニーズとは欠乏感を意味する言葉です。
何らかの欠乏感を抱いている人には、
まずは、その詳細を具体的に
ヒアリング
することが必要です。
『わからないことがあったら訊いて』
『何か不便なことはありませんか?』
『困っていることはない?』
など
これは、人を育成する環境においては
普通に実践されていると思います。
ヘンダーソンは更に
ニーズを捉えにいく
姿勢について語られています。
患者が何を欲しているかのみならず、
生命を保持し、健康を取り戻すために
何を必要としているかを知るために、
彼の皮膚の内側に入り込まなければならない。
意識を失っている人の意識となり、
自ら命を絶とうとしている人に代わって
生命の熱愛者として立ち、
足を切断された人の足、
光を失ったばかりの盲人の目、
赤ん坊の移動の手だて、
若い母親の知識と自信、
体が弱り果てて、
あるいは引っ込み思案のために
ものが言えない人の「声」となるのであり、
まだまだこの続きはたくさんある。
(抜粋)
以上から私は、
ニーズには
顕在的ニーズと潜在的ニーズ
があり、
潜在的ニーズは
積極的に捉えにいく姿勢が必要だと考えました。
【「できない」に援助】
時々、育成の現場で、
当たり前にできることができない人に対して、
何でできないんだろう?
と陰口が囁かれる風土があります。
当たり前にみんなが普通にできていることが、
「できない」反応を示す場合、
援助が必要です。
何ら努力しなくてもできること
問題なく自然にできること
ごく簡単なこと
これらの当たり前にできることが
「できない」
には、必ず理由があります。
それぞれの理由を理解し、
パターンにアプローチ
することが求められます。
「できない」は欠乏感を表しているので、
きっと本人も
できるようになりたいと願っているはずです。
私達は
できなくなる行動パターンと、
できるようになる行動パターンを
助けることが必要だと考えます。
間違っても、
あの人は◯◯ができないから
~~へ異動すればよい。
と、人のキャリアを軽々しく
口にすることは慎みたいところです。
ヘンダーソンは
何らの努力なくできる「呼吸」を例に、
呼吸自体が「苦闘」になっている人に
胸郭が十分に広がる体位をとらせる援助について
述べています。
私達が注力するところは、
できない行動パターンを助け、
できる行動パターンを保つ手助けをする
パターンへのアプローチではないでしょうか。
【育成者としての情熱を持つ】
育成に携わる人には
これまで培ってきた「経験」があります。
育てられて嬉しかったこと、辛かったことが
たくさんあるはずです。
その経験に自信を持つことが必要です。
また、現在では育成についての
研鑽を積む環境も整ってきました。
知識・経験(リソース)を踏まえ、
「育成は自分にしかできないこと」
と育成への情熱を持っていることが前提になると
考えます。
ヘンダーソンは、
強い体力を持ち、知識もあり、
生命愛に燃えていれば、
援助なしでもできるはずの
健康的な養生法といったものを
患者が保持したり、
つくり出したりするのを助けるのである。
(抜粋)
と述べています。
ここでいう、
『体力と知識』を比喩的な表現で捉えると、
育成者のリソースではないか?
と私は考えます。
私達のリソースと情熱は、
相手の自立と自発を支えていると
痛感しました。
【まとめ】
人の自立・自発を支えるために私達はどうあるべきか?
潜在的ニーズを積極的に捉えにいく姿勢
行動パターンを助ける
リソースに自信を持ち、役割に情熱を持つ
↓ ↓ ↓ この方がヴァージニアヘンダーソン。看護理論家。看護教員をしていた時、実践者としての能力保持のため、土日は病院で勤務していたそうです。実践への探究心が素晴らしいと思いました。1996年没。生きていたら122歳。